日本の伝統織物と繊維産地を探るシリーズ①日本の伝統織物と繊維産地

プロローグ

&CROP編集部の瀧澤です。海に囲まれ、南北に長い日本列島には古来よりさまざまな伝統織物が伝わっています。これらの中には大陸から伝わって発展をしたものや、土地の気候風土の中で独自に生み出されて来たものが混じり合っています。伝統工芸として知られている三大紬結城紬・大島紬・牛首紬や京都の西陣織などは良く知られていますがそれ以外にも北は樺太・北海道のアイヌに伝わるオヒョウの樹皮で織られるアットゥシ織や沖縄・奄美地方のイトバショウから採れる糸で織られる芭蕉布、最西端の与那国島には与那国織という苧麻から作られる織物もあります。また新潟や山形の山間部に受け継がれているしな布葛の繊維から採る糸で作られる葛布(かっぷ)のような古代布と呼ばれる織物もあります。伝統的工芸品に選定されている織物だけでも38品目があり、友禅紅型・注染・絞り染め等の染色品を含めると52品目に上ります。また伝統的工芸品には指定されていないものも含めて全国各地には特色のある多様な染織品が存在しています。一方、明治期以降に海外から紡績技術の導入と共に輸入され産業として発展した繊維産地があります。これらの繊維産地は産業としての地理的な条件を満たす地方都市を中心に発達しまて来ました。そこには地域の気候風土や歴史的背景も影響しています。最も古くから織られていたと考えられているのは苧麻大麻のような靭皮繊維、次いで弥生時代には絹織物が大陸から伝わっていたと言われています。しかし絹織物が貴族向けの高級品として広まるのは奈良・平安時代以降、さらに綿(わた)の栽培が盛んになるのは江戸幕府の政策もあって江戸期になってからで温暖な気候の遠州・三河・泉州地域を中心に栽培が盛んになり、綿織物や藍染が広まります。こうした気候や歴史的な背景から北陸地方を中心に発達した絹織物産地は近代になると合成繊維の産地として発展し、大阪(泉州)・愛知(三河)・静岡(遠州・浜松)は綿織物の産地として発展します。全国各地に伝わる伝統的な織物に触れ、素材を供給してくれる繊維産地の特色や成り立ちを知ることは新しいクリエイティブを生み出すアイデアの源泉になると思い【日本の伝統織物と繊維産地を探る】シリーズを書くことにしました。第1回目の今回は代表的な伝統織物と繊維産地を簡単に紹介して、次回以降それぞれの産地の特色や伝統織物とのかかわりを興味深いエピソードなども交えて探って行きたいと思います。ご一読いいただいて何かのアイデアやヒントにつながれば嬉しいです。

日本の伝統的な染織工芸品

 東京国立博物館所蔵 縦縞四つ目模様芭布着物 画像
東京国立博物館所蔵 縦縞四つ目模様芭布着物 Wikipedia

上の図は日本の伝統的工芸品に指定されている織物です。伝統的工芸品とは経済産業省の指定を受けた工芸品で織物と染色品を合わせると52品目が指定されています。伝統的工芸品として認められるには伝統的工芸品産業の振興に関する法律に基づいて次の5つの要件を満たし経済産業省に認定される必要があります。

1.主として日常生活で使用する工芸品であること。
2.製造工程のうち、製品の持ち味に大きな影響を与える部分は、手作業が中心であること。
3.100年以上の歴史を有し、今日まで継続している伝統的な技術・技法により製造されるものであること。
4.主たる原材料が原則として100年以上継続的に使用されていること。
5.一定の地域で当該工芸品を製造する事業者がある程度の規模を保ち、地域産業として成立していること。

これらの伝統的工芸品としての染織品は数ある伝統工芸品の中でもとくに厳しい基準を満たす厳選された工芸品ですが伝統工芸品と伝統的工芸品を合わせると染織品だけでも170ほどの品目に上ります。伝統的工芸品となると日常生活で使用する物と言っても限られた人材による高い技術を必要とする希少性から現在ではどちらかと言うと芸術品に近い感じがあります。伝統工芸品には私たちの日常の生活により近い裾野の広い身近な工芸品として使われているものも多いです。いずれにしても各地の伝統工芸が培ってきた高い技術力が近代以降の我が国の繊維産業の発展に与えた影響は大きくひとくくりで言い表せない面白さがあります。伝統的工芸品について詳しく知りたい方は下記のサイトも参考にしてください。

KOGEI JAPAN

日本の伝統工芸品の一覧をご覧いただけます。コウゲイジャパンは伝統工芸品を世界に発信・紹介するサイトです。日本の伝統的工芸…

国内の繊維産地概要

次の図は国内の繊維産地をプロットしています。伝統的工芸品とは違い、北海道や八重山には産業としての繊維産地は無く、本州中部や近畿、北陸に集中しています。これは江戸期に藩の特産品などとして発達してきた絹・綿・麻織物を背景に明治期以降の輸送・電力・労働力・原料供給など産業インフラ重視で地方都市を中心に繊維産業が発展して日本の近代化を支える主力産業となってきたことが大きな要因です。ここでは各産地の特色や主要産品に簡単に触れておきたいと思います。

①米沢産地(山形県)

紅花画像
紅花

米沢産地(山形県米沢市)は、江戸時代に9代藩主上杉治憲が藩の財政再建策として養蚕と絹織物を奨励したことにより発展した織物産地です。はじめは絹の「米沢織」が中心でしたが、明治以降は機械化の進展とともに洋服地の生産へと広がり、ウールや合成繊維、ジャカードなど多様な素材を扱うようになりました。現在では、高級スーツ地や婦人服地のほか、デザイン性の高い小ロット生産にも対応し、伝統技術と現代的な素材開発を組み合わせた産地として評価されています。

②栃尾・見附産地(新潟県)

栃尾油揚げ画像
栃尾の油揚げ

栃尾・見附は名峰守門岳の新潟側の麓の隣接する産地で栃尾は長岡市、見附は見附市になります。江戸~明治時代には栃尾は栃尾紬と言う縦緯に紬糸用いた絹織物を産し、見附は見附結城(見附小倉)と呼ばれる縞柄の綿織物で知られていました。明治期以降は複合素材の先染め織物など幅広い素材に対応した産地として発展しましたが、第二次大戦中に物資の供給が途絶え、企業整備令が発動されたことで転業・廃業が続出し産地規模が縮小します。昭和になるとニット製品ブームと共に編み機の導入が進みその後も高度経済成長の波に乗りニット産地として知られるようになりました。現在では五泉・見附・栃尾を中心にそれぞれ特色のあるものづくりを行っています。

③北陸産地(福井・富山・石川県)

石川県かほく市に70億円を投じて作られたカジファクトリーパーク(KAJI FACTORY PARK)
石川県かほく市に70億円を投じて作られたカジファクトリーパーク(KAJI FACTORY PARK)

国産の9割の合成繊維(ポリエステル・ナイロン)織・編物を生産する北陸(福井・富山・石川)は、織物に適した湿潤な日本海側気候と、移民とともに大陸から伝わった養蚕・絹織物の技術の発展を背景に合成繊維が開発されて以降、日本最大のフィラメント繊維の産地として発展しました。天然繊維で唯一の絹による長繊維(フィラメント)織物の技術の集積が合成繊維の一大産地となる礎になったことは想像に難くありません。終戦後にはレーヨン織物そしてポリエステルやナイロンなどのフィラメント織物へと転換し高度経済成長期には米国の生産量を上回る世界最大の合繊フィラメント織物産地となりました。現在では合繊長繊維織物の生産は中国・台湾・韓国をはじめ東南アジアが主力となっていますが高機能加工などの技術開発で差別化を図ることで高付加価値素材として世界的に指示されています。

④桐生産地(群馬県)

桐生地区で良く見られるノコギリ屋根の織物工場
桐生地区で良く見られるノコギリ屋根の織物工場(画像は桐生市のHPより転載)

「西に西陣、東に桐生」と言われ続日本書紀には奈良時代の始め(714年)に絁(あしぎぬ)を朝廷に献上したと記録されています。桐生川と渡良瀬川に挟まれた赤城山麓の盆地は良質な蚕を産することからとくに絹織物が発達しました。明治になると日本を代表する絹織物の羽二重を創製したり、最先端のジャカード織機をいち早く導入するなど和装にも洋装にも対応した総合産地としての地位を築き、「お召織(おめしおり)」「緯錦織(よこにしきおり、又は、ぬきにしきおり)」「経錦織(たてにしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」「浮経織(うきたており)」「経絣紋織(たてかすりもんおり)」「綟り織(もじりおり)」の7つの技法で織られる織物は「桐生織」と呼ばれています。

⑤富士吉田産地(山梨県)

吉田うどん画像
織物に忙しい女性に変って男性が打ったと言われる吉田うどん

江戸時代の山梨県(甲斐国)は国中(甲府盆地を中心とする地域)と郡内(東部の富士吉田・都留・大月など)に分けられ、富士吉田を中心とする郡内で織られていた絹織物は郡内織物甲斐絹(かいき)呼ばれていました。その歴史は古く平安時代には朝廷に生地を納めていた記録があります。この産地の特徴は先染め・細番手・高密度の絹織物でしたが現在では合成繊維・キュプラなどを用いた高級裏地・傘地・国産のネクタイやインテリア向けの生地を中心に生産しています。

⑥遠州・天龍社産地(静岡県)

コーデュロイ 画像
コーデュロイ 画像

天龍社産地は静岡県を遠州灘に潅ぐ天竜川の東側(磐田市)の地域で国産の別珍・コール天の95%を製造しています。そして、天竜川の西(浜名湖)側が遠州で日本を代表する綿織物の産地です。江戸時代に和綿の生産が盛んになると日本の三大綿織物産地の一つとして発展した遠州(浜松市)には現在も多くの染色整理加工所があります。天龍社産地は遠州灘に面していたことから帆船の帆布を織る機が多く、この厚地綿織物技術が礎となり明治時代に輸入品のコーデュロイや別珍の国産化に成功しました。また遠州産地は綿花栽培農家が始めた手機による綿織物が遠州木綿として広まり、明治期になると豊田自動織機製作所鈴木式織機製作所が創業して日本の製織技術を押しあげたことで浜松地域は日本最大の綿織物の産地へと発展しました。

⑦三河・知多産地(愛知県)

知多木綿印染見本帳
知多木綿印染見本帳

三河は愛知県東部の蒲郡・豊橋・知多半島周辺で前項の遠州産地の西側に位置し、日本の綿花栽培の発祥地と言われています。これは延期年間(799年)に崑崙人(こんろんじん)が三河に漂着した際に綿種を伝えたと類聚国史(るいじこくし)に記載があることによりますが、実際に三河で綿の栽培が始まったのは16世紀初頭と考えられています。三河地域には三河織物工業協同組合があり三河縞(みかわじま)に代表される三河木綿は地域団体商標に登録されています。また、知多産地は江戸時代のはじめに農家の副業として生白木綿(きじろもめん:生機)を生産していましたが、江戸中期に晒技術を導入したことにより「知多晒」として確立され木綿晒生地の産地として発展しました。戦後には工業化と海外生産の進展によって衰退しましたが,現在も手ぬぐい・ガーゼなどの小幅の晒生地を生産しています。

⑧尾州産地(愛知・岐阜県)

「BISHU」マーク
「BISHU」マーク

尾州尾張国(おわりのくに)の別称で一宮市を中心とする愛知県西部と岐阜県羽島市を含む地域を指しています。古くは弥生時代の遺跡から麻織物が出土、奈良時代になると絹織物、江戸期には綿織物も生産していました。明治時代になると着尺セルモスリンなどの毛織物の試作が試みられるようになり毛織物の染色整理技術の研究が進められました。大正時代になって第一次大戦が起こり毛織物の輸入が途絶えると国内需要をまかなうために生産が増大し綿・絹から毛織物の産地へと転換して紡績・製織・染色・整理仕上げの全工程を産地内で行える分業体制が整って行ったことでイギリスのハダースフィールドイタリアのビエラと並ぶ世界の三大産地の一つとなり、国内の毛織物の70%以上が尾州産地で生産されています。

⑨湖東産地(滋賀県)

近江商人(初代細田善兵衛)の絵
近江商人(初代細田善兵衛)の絵 Wikipedia

湖東は滋賀県の琵琶湖の東側の地域を指し、室町時代にはすでに産業として麻布の生産が行われていました。伝統的工芸品の近江上布は日本古来からの麻である苧麻手積みした大麻を用いて織られます。麻は湿気を吸うと繊維の強度が増すことから山々に囲まれた琵琶湖の周辺が麻の製織に適していたこともあり湖東産地は伝統的な麻織物の産地として発展し、現在も麻織物を生産するメーカーが集まっています。

⑩丹後産地(京都府)

丹後ちりめんの「古代縮緬」
丹後ちりめんの「古代縮緬」二越ちりめん・鬼シボちりめんとも呼ばれる Wikipedia

海の京都」とも呼ばれる京都北部の丹後地域は京都府の日本海側にあるために、特に秋から冬にかけては雨や雪の多い湿潤な気候で乾燥による糸切れを嫌う絹織物に適しています。織物の歴史も古く、聖武天皇に献上された絹織物が正倉院御物として現在も残っています。江戸時代に京都西陣ちりめん織の技法を学んだ絹屋佐平治が丹後に帰り、今までにない風合いのちりめん織に成功してこれを広めたことで独特のシボ感を持つ「丹後ちりめん」が生まれ、この技術がもとになり丹後は日本一の絹織物産地となって現在国産絹織物の70%が丹後で生産され、またポリエステルやレーヨンなどの合成繊維のちりめんの生産も行われています。

⑪泉州産地(大阪府)

画像は泉州織物工業協同組合さんのHPより転載しています https://senshu-textile.jp/

大阪府南西部の泉州地域は「和泉(いずみ)の国」と呼ばれ大阪湾と和泉山地に囲まれた温暖な地域で、稲作よりも綿栽培に適していたことから三河で綿の栽培が始まると泉州でも綿が栽培されるようになります。当初は実綿で売買していましたが絹織物から換金性の良い布木綿への転換が進み1800年代初めには年間生産量が100万反、1800年代中頃には200万反に達し、繊維長が長い和泉産の綿は細い糸を紡ぐことが出来ることから「和泉木綿」の名で高く評価されました。現在では泉州地域での木綿栽培は行われていませんが地域団体商標登録地域ブランドとして認定され衣料用織物を始め、寝装用織物、工業資材用織物、衛生素材用織物など、広範囲にわたる多くの品種を製織しています。

⑫高野口産地(和歌山県)

高野口のフェイクファー画像
高野口のフェイクファー 画像は中野メリヤス工業(株)さんのHPから転載

平安後期から高野山への参詣口として栄えた高野口を中心とした地域はパイル織・編物の産地として世界的に知られています。産地としてのはじまりは江戸時代の木綿織物で明治に入ると綿の織物を西洋アザミの実で起毛した川上ネルという織物が防寒性と肌触りの良さから広まり、産地として発展しました。その後パイルファブリックのルーツとなった再織の手法が創案され、大正時代にはシール織物が考案されて機械による量産が行われるようになって綿・レーヨン・羊毛・絹などの素材が用いられて来ました。終戦後には合成繊維の登場とともにアクリル・ポリエステル・ナイロンなどの素材を用いるようになり、各種のパイル織機・パイル編み機が導入されてアパレル・寝具・インテリア・車両シート・雑貨・産業資材と幅広いパイルファブリックを生産しています。

⑬西脇産地(兵庫県)

播州織に使われていた力織機画像
播州織に使われていた力織機 Wikipedia

西脇市は播磨平野の北、兵庫県東部の内陸に位置し加古川・杉原川・野間川の3つの河川が流れる水資源に恵まれた地域で江戸時代中期に綿花栽培が始まり衣料の自給が行われていました。1792年に宮大工飛田安兵衛(ひだやすべえ)が京都西陣から織物の技術を持ち帰り、織機を製作したことで綿を原料にした先染めの織物が次第に広まり播州縞と呼ばれるようになります。明治時代のはじめころには60~70軒の綿布業者があり明治後期に力織機が普及すると家内工業から工場生産へと移行「播州織」と改称して国内最大の先染織物産地となります。播州織の生産量は、昭和62(1987)年の約3億8,800万平方メートルをピークに2016年には約3,422万平方メートルと、ピーク時の約8.8%まで減少しました。現在では地元の繊維機械商社株式会社片山商店が中心となって、多種類の材質・太さの糸を繋いで織物を連続生産する世界初のシステム「アレンジワインダー」の開発に成功、多品種・小ロットの生産ニーズへの迅速な対応や新たな取り組みを次々と展開して産地の活性化に取り組んでいます。

⑭三備産地(岡山・広島県)

備後絣画像
備後絣 Wikipedia

岡山県南部から広島県南東部にかけての備前(岡山県倉敷市児島周辺)・備中(岡山県井原市周辺)・備後(広島県福山市周辺)の3つの産地を合わせて三備産地と言い、デニム・学生服・ワーキングウェアの産地として知られています。江戸時代にそれぞれの地域を統治していた藩は石高を増やすために瀬戸内海側の干拓を行なったが出来たばかりの干拓地は塩分が強く米作に向かないために塩に強い綿花の栽培がおこなわれるようになり、豊前小倉藩の特産品であった小倉織が備前・備中でも織られるようになりました。また江戸時代末期には備後絣が考案されて全国に広まります。小倉織は徳川家康が「武士の袴は小倉に限ると」言って愛用した厚地の丈夫な織物で明治期には男子学生服の服地として広まったことで厚地の織物技術が発達します。明治時代後半から昭和の初めにかけて国内の綿織物が大きく進展し輸出主導となる中で三備産地は内需向けに発展し、第二次大戦中には産業統制によって軍服の製造を行い、終戦後には厚地の織布・裁断・縫製ノウハウのによってデニムやワーキングウェアなどを中心に生産する産地として発展しました。

⑮今治産地(愛媛県)

今治は江戸時代には温暖で肥沃な土地柄から綿花栽培が盛んに行われ伊予木綿(白木綿)の生産が始まり、明治の初めには年間500万反を生産する産地となりました。しかし安くて品質の良い他産地の木綿や海外からの輸入品に押され衰退。打開策として矢野七三郎が紀州ネル(川上ネル)を参考に改良した「伊予ネル」を考案し、これがタオル製造の基礎となって後に阿部平助が綿ネル機械を改造してタオルを作るようになったのが今治タオルの始まりで、日本一のタオル産地へと発展しました。通常のタオルは製織⇒晒⇒染の工程で製造されますが今治のタオルは晒⇒染⇒製織の「先晒し先染め」の工程で製造されます。今治は良質な地下水が豊富で、先に水で晒すことで風合いの柔らかい吸水性の高いタオルに仕上がります。今治タオルは厳格な基準をクリアした製品にのみ今治ブランドのマークを認めるなどブランディングを徹底したことで世界からも注目される産地となっています。

⑯博多産地(福岡県)

博多織 認証画像
博多織認証

博多産地の特筆すべきは、他の繊維産地とは異なり唯一の伝統的工芸品である博多織を生産する産地として博多織工業組合が企業と個人併せて32名の組合員を有して産地として機能している点です。博多織のはじまりは1235年、満田彌三右衛門が宋に渡って学んだ織物の技法を家伝として伝え、さらに250年ほど後に子孫の満田彦三郎が明(みん)に渡って織物の技法を研究。竹若藤兵衛(たけわかとうべい)と工法の改良を重ねて模様の浮きでた厚地の絹織物を作り出したのが始まりと言われています。黒田長政が博多織を徳川幕府への献上品として選んだことから厳重な統制のもとで保護され江戸後期には12件の博多織屋があったと言われています。明治になると自由に生産されるようになりジャカード機も導入されて明治30年には240軒の博多織屋が存在していたそうです。その後様々な要因で衰退しましたが、終戦後の復興と着物ブームが重なり最盛期には168軒が年間200万本の帯を生産していました。現在は機器の発達に伴って更に繊細な技術による帯や着物以外にも、小物やギフト、緞帳、ネクタイ、ドレス、スーツなどさまざまな博多織商品が開発されています。また隣の北九州市小倉では一度は途絶えた小倉織が再現されて生産されています。博多織は絹の細い糸を高密度に織った織物ですが小倉織は綿の経糸密度を限界まで高めたクッキリした縞模様が特徴の織物です。小倉織については下記の記事も参考にしてください。

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まとめ

今回はシリーズ1回目と言うことで日本の繊維産地と伝統工芸についての全体像をまとめたのですが伝統的工芸品についてはほとんど言及できず、また各産地についても概要を書いただけで結構長くなってしまいました。そしてあらためて日本のものづくりって本当にすごいなぁ~と思いました。今回の記事を書くことで知らなかった発見も沢山あり2回目以降は興味の赴くままに掘り下げて行きたいと思っています。どうなることやら知らんけど…(笑)

 

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