鮮烈で存在感のあるテキスタイル・小倉織とは

  • 2024年7月17日
  • 2024年7月25日
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小倉織をご存知ですか?

小倉織の画像

 

鮮烈で存在感のあるテキスタイル! はじめて小倉織の生地を手にした時に感じた素直な気持ちです。小倉織(こくらおり)をご存じですか? 遅ればせながら私は最近になって初めて小倉織に出会いました。

「武士の袴は小倉に限る」小倉織の歴史は江戸時代から

小倉織は江戸時代のはじめ頃から福岡県北九州市小倉城下で地場産の和綿を紡いだ糸を使って織られてきた布です。

小倉城の画像
福岡県北九州市にある小倉城

小倉織はその丈夫さから「武士の袴は小倉に限る」と言われ、古くは徳川家康が鷹狩の際に小倉織の袷羽織を愛用していたと事跡合考に記載があります。※事跡合考(じせきがっこう)…江戸後期に柏崎具元(かしわざき とももと)によって書かれた随筆。

また名古屋市の徳川美術館には狂言装束としての縞小倉羽織も収蔵されています。

江戸後期に最盛期を迎えたが、幕末の政治情勢の影響で生産数が激減

豊前小倉藩の特産品であった小倉織は江戸中期になると綿花栽培の広まりとともに備前児島・諏訪・足利など各地でも生産されるようになり備前小倉・備中小倉・土佐小倉のような小倉織も織られるようになりました。小倉織の生産は江戸時代後半に最盛期となり、当時の小倉城下近郊には3000戸以上の家庭に1~2台の織機があったと言われます。しかし幕末になると政治情勢の影響を受けて生産が激減します。さらに長州征討が起こって生産者が離散、活動が縮小されました。

明治以降に再び生産、男子学生の服地として全国に。

明治になって政情が安定すると小倉織復活の気運が高まり、明治29年には小倉織物株式会社が設立されて機械紡績糸を化学染料で染めた小倉織が生産されるようになります。経糸に黒と白の撚り杢糸を使った「霜降」と呼ばれる小倉織はその丈夫さから男子学生服の服地として使われるようになり、再び全国に広まります。

霜降小倉の画像
霜降小倉

しかし金融恐慌の影響で明治34年に小倉織物株式会社は解散、次第に衰退して昭和のはじめ頃に小倉織は途絶えました。その小倉織を北九州市の骨董店で出会った江戸時代の小児袴の古裂から復元して再び現代によみがえらせたのが染織家の築城則子(ついきのりこ)氏です。

 染織家 築城則子氏と小倉織の復元

学生服地として再び全国に広まった小倉織

国内産の和綿を紡いで草木や藍で染めて織られていた小倉織は江戸から明治へ時代の変わり目に一度衰退しましたが、明治時代になると小倉織は輸入綿花を機械で紡績して化学染料で染めて生産する学生服地として再び全国に広まりました。しかし品質の悪い模倣品が量産されたことや生活様式が大きく変化したことなどの影響で昭和のはじめ頃ころには再び途絶えてしまいます。

染織家 築城則子氏との出会い

それから、およそ60年の時を経て、染織家として歩み始めていた築城則子氏と一枚の古裂の出会いによって小倉織は復元されることになります。

能装束の色の美しさに強く惹かれて染織の道へ

早稲田大学で文学を専攻していた築城さんは世阿弥の「花伝書」に強く影響を受け能装束の美しさに魅せられて大学を退学して染織の道に進みます。故郷の北九州市に戻って市内の染織研究所で糸染めや織りの基礎を身に付け、久米島紬や信州紬の産地で学びながら制作活動をしていくなかで出会ったのが小倉織でした。

勉強のために通っていた北九州市内の骨董店で江戸の後期の織られたという小倉織の子供の袴の生地の端切れに出会ったのです。白地に藍の濃淡のグラデーションでなめし革のような光沢を持った縞柄の端切れは、もともと能装束のたて縞の色の美しさに強く惹かれていた築城さんとっては運命の出会いでした。

小倉織を再生したい、という思い

築城さんは自分が育った故郷の途絶えてしまった美しい小倉織を再生したいという思いから文献を調べ、学芸員に相談します。そして骨董店の店主から譲り受けた生地の分析を福岡県の工業試験場に依頼。分析の結果、経糸の密度が緯糸の2倍もあることが分ります。しかし、分析結果の通りに糸の太さ・密度・デザインを設計しても織りあがったのは築城さんの小倉織のイメージとは違うものでした。古裂の質感は丈夫な小倉織が長い間使い込まれることで出来たものだったからです。

小倉織の復元に向けて試行錯誤の日々

「どうしたら小倉織の古裂のような美しさと質感を再現できるのか?」そこから築城さんの試行錯誤が始まります。使い込まなくても初めから古裂のような手触り、質感、美しさになるように経糸を少しずつ細くして密度を高めて行きました。密度が高すぎて動かなくなった織機に改良を重ね、たどり着いたのは経糸の密度が緯糸の3倍もあり1センチの間に60本もの経糸のある設計でした。骨董店での古裂との出会いからおよそ1年半後の1984年、築城さんはついに小倉織の復元に成功。最初の作品は1985年の日本伝統工芸展に初入選して小倉織の復元・再生が実現しました。

伝統工芸としての小倉織と機械で織る小倉織

「小倉織の美しさを追い求めること」を生涯のテーマに

一度は復元に成功したと言っても、納得のゆく小倉縞の意匠を体得するのに3年かかりました。そしてその後、旅行で訪れたアフリカの砂漠の旅の経験から伝統的な配色にとらわれずにもっと自由に色を使いたいという思いが生まれます。その思いをもとに、花が咲く前の梅の木の枝で染めて織った薄紅色の帯「梅の頃」は1991年の西部伝統工芸展で朝日新聞社賞を受賞します。築城さんはこの受賞を契機に「小倉織の美しさを追い求めること」を生涯のテーマと決めて作品制作を続けてきました。1995年には北九州市八幡東区の山裾に「遊生(ゆう)染織工房」を構え、現在までに600点を越える作品を生み出し、現在も小倉織の新しい表現の追求を続けています。

小倉織を日常的に使われる小倉の特産品に

一方、天然染料で綿糸を染めて手織りする伝統工芸としての小倉織は特有のたて縞のグラデーションを表現する為に何年もかけて糸を染重ねるなど、非常に手間と時間のかかる希少な作品であることから価格も高価で地元の人や一般の人の目に触れる機会も多くありません。築城さんには「小倉織をもっと日常的に使ってもらえる小倉の特産品にして行きたい」という思いがありました。その思いに市内で布地販売の仕事をしていた妹の渡部英子(わたなべ ひでこ)さんが賛同。1996年5月に機械で織る小倉織の商品開発と製品販売のための会社「有限会社小倉クリエーション(2018年社名変更して現在は株式会社小倉 縞縞)」を設立します。

規格外に高密度の小倉織を織ることができる工場探し

しかし昭和初期に小倉織が途絶えてしまった小倉には、産地としての機能や織物を織る工場も無いため他産地で小倉織を織ってくれる工場を探します。けれども復元された小倉織は35cmの帯の巾で経糸の本数が2160本と通常の織物の3倍もあり広巾で織るには8000本を越える経糸が必要となります。手織りで復元する際にも経糸密度が高いために織機が思うように動かず工夫が必要でした。広幅の織機でこの規格外に高密度の小倉織を織ることができる工場は中々見つかりません。そんな中、福岡県筑後市で久留米絣を織っている工場が協力してくれることになり、何度も試織と試験を繰り返して1年がかりで技術的な問題をクリアしてやっと機械織りの小倉織を生産する目処が立ちます。

小倉織ブランド小倉 縞縞の確立

小倉織を広めるために

小倉織生産の目処が立ったとは言え量産する生地のデザイン・用途・販売方法すべてが手探り状態。渡部さんはプロジェクトを進める傍ら福岡県産業デザイン協議会が主催する『デザイン開発ワークショップ』に参加して商品づくりやモノづくり、販路開拓を学んでいるときに福岡デザインアワードへのエントリーを進められます。そこで小倉織の生地デザインをシンプルに見せることができる商品として企画した最初の商品の「風呂敷」が見事に2007年福岡デザインアワード大賞を受賞。この受賞がきっかけとなり北九州市も小倉織に感心を示し、地元でも小倉織の存在が知られるようになり、経済産業省が公募した世界進出プロジェクトへも参加して海外からも注目されるようになります。

小倉 縞縞 KOKURA SHIMA SHIMAの誕生

機械織によるテキスタイル生産が可能になったことで小倉織の伝統を継承するブランド「小倉 縞縞  KOKURA SHIMA SHIMA」が確立し、ランチョンマット・扇子・バッグ・傘・ネクタイ・名刺入れ…とさまざまな商品が生まれました。また生地の巾が138cm~140cmと広幅なメリットを生かし、ファッション・インテリア・内装デザインと用途も多分野に広がっています。

進化を続ける小倉織 KOKURA SHIMA SHIMA

立体的な縞模様が美しい小倉織

小倉織は、縞のデザインが最大の特長。海外ではKOKURA STRIPESと呼ばれています。一般的なストライプの柄は異なる配色(例えば青と白)を一定のピッチで繰り返して作られるので平面的な印象ですが小倉織のストライプは細い先染め糸を何色も組み合わせることで立体的な表現の美しいグラデーションになっています。

photo: kyoko omori

小倉織ではシャツに使われるような細番手の双糸を経糸に使い、縦密度を緯糸の3倍にすることで緯糸が見えない鮮明な縞柄を表現することを可能にしています。古くから世界各地で織られてきた縞柄の織物は日本では江戸時代に和綿の栽培とともに広まりました。農山村や漁村では織物を織ることが貴重な現金収入源になり、各家には代々織ってきたハギレを貼り付けた縞帳と言う見本帳が大切に受け継がれて多くの縞の呼び名(千筋・万筋・子持縞・棒縞・よろけ縞・矢鱈縞・鰹縞・滝縞…etc)も生まれて、江戸の町では縞柄がもっとも粋でおしゃれなファッションになります。そんな中で縞の鮮やかさと丈夫さから「武士の袴は小倉に限る」といわれて日本中で愛用された豊前小倉藩の特産品・小倉織を復元した築城則子さんが伝統工芸としての小倉織の作品制作を続ける傍ら小倉縞縞のデザイン監修を行い、商品の企画開発販売を行う株式会社小倉縞縞と機械織の小倉織を製造する小倉織物製造株式会社が三位一体となって伝統を継承しながら未来の新しい小倉織の表現を創り出し続けています。

 

まとめ

一つひとつのデザインが「作品」である小倉縞縞

小倉縞縞のテキスタイルには一つ一つのデザインに「夜」「藍百筋」「黒多彩」「藍輪舞」「紫流」「コバルトの水」のような名前がついていて、ウェブサイトでそれぞれの柄について解説を読むことができます。私には、小倉縞縞の提案するテキスタイルは工業製品というよりは作品のように感じられます。

一度は途絶えてしまった伝統工芸としての小倉織を復元・再生した築城さんの小倉織への思い。小倉の特産品として小倉織を再び世に広めたいと尽力された渡部さんの思い。そして現在は小倉縞縞の生地は北九州市小倉にある渡部さんの娘の築城弥央(ついき みお)さんが代表を務める小倉織物製造株式会社で製造されています。繊維は斜陽産業の代表のように言われて今でも廃業を選ぶ機屋や整理加工業者が後を絶たず、日本中の繊維産地の空洞化が進む中。一度は途絶えた産地の特産品 が海外からも注目されて復活して再び生産ができるのは本当に素晴らしい事だと思います。

小倉織産地の復活が日本の各地で途絶えつつある繊維産業復活の一つのモデルケースになれば良いと言う思いもあってこの記事を書きました。この記事を読んで小倉織に興味を持っていただき、更に詳しい情報を必要とされる方がいましたら文末にこの記事を書くにあたって参考にさせていただいたウェブページや記事のリンクを貼っておきますので参考にして下さい。

最後までお読みいただきありがとうございました。

参考リンク

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