&CROP編集部の瀧澤です。
繊維・アパレル業界に関わる人で「尾州産地」という言葉を知らない人はいないと思います。しかし「尾州が世界の三大毛織物産地のひとつである」という事実を、具体的に説明できる方はそう多くないのかも知れません。
私はテキスタイル企画販売の仕事を通じて、尾州産地にはずいぶんお世話になりました。尾州の毛織物が国内外のブランドに選ばれ続けているその理由と、今この産地が直面している現実の両方を、できるだけフラットにお伝えしたいと思います。今回は産地の歴史・地理・技術・現状という4つの軸から、尾州を読み解いていきます。
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もくじ
1.「尾州」とは‐木曽川と濃尾平野がつくった産地の地理
「尾州」は旧国名「尾張国」の略称で、現在の愛知県北西部から岐阜県南部にかけての地域を指します。産地の中心は愛知県一宮市・津島市・稲沢市と岐阜県羽島市・各務原市周辺で、この地域に毛織物に関わる企業が集積しています。
なぜここに産地ができたのか――3つの地理的条件
①木曽川の軟水:木曽川は日本有数の清流で、その水は硬度が低く鉄分が少ない「軟水」です。染色・整理加工において水質は品質に直結します。硬水では染料が均一に入らず、色ムラの原因になります。尾州の水がウールの染色・整理加工に適していたことは、産地形成の最大の地理的条件のひとつです。
②濃尾平野の気候:年間を通じて湿度が高く(平均約60%)、温暖な濃尾平野の気候はウールの加工に適しています。ウールは乾燥すると繊維が損傷しやすく、一定の湿度が品質管理に欠かせません。
③伊勢湾の物流:伊勢湾を通じた海上輸送のアクセスが良く、原料(輸入羊毛)の搬入と製品の出荷において地理的な優位性がありました。木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)を通じた内陸輸送との組み合わせが、物流の要衝としての役割を果たしてきました。
❓ 尾州産地の中心・一宮市はどんな街なのか?
↳ 名古屋から名鉄で約20分、人口約38万人の愛知県第2の都市です。市内の住所に「一宮市せんい1丁目」という繊維産地らしい地名が存在するほど、繊維業が街のアイデンティティに深く刻まれています。のこぎり屋根(採光のための特徴的な屋根形状)の工場が最盛期には市内に8,000棟以上あり、現在も約2,000棟が残っています。
2.羊毛を生産しない日本で尾州が毛織物の三大産地の一つになれた理由
尾州産地を知るのに一つの疑問が浮びます。それは「日本は羊毛の生産国ではないのに、尾州はなぜ世界の三大毛織物産地のひとつ」と言われるようになれたのかという問いです。
明治8年(1875年)、内務卿・大久保利通は下総(現在の千葉県)に大規模な牧羊場を開設し、国内での羊毛生産を試みました。しかしこの試みは失敗に終わり、その後日本は羊毛の国内生産を事実上諦め、輸入に頼る道を選びます。しかし大久保卿は羊毛生産を諦める一方で毛織物の国産化は諦めず、海外の実業家による製造事業の申請を退け、国産で毛織物産業を起こす決意を固めていました。では明治維新維新後に急激に洋装化が進む中で原料を自国で賄えない国の一産地が世界三大産地と言われるようになっていった理由は何だったのでしょうか?
3つの答え
この問いには大きく3つの要因があると言われています。
❓ 羊のいない国で世界三大産地になれた理由は?
第一は前章で述べた「木曽川の水質と濃尾平野の気候」という地理的条件。第二は「国産織機の開発」です。これは第一次世界大戦によって織機の輸入が困難になった事で、国産四幅織機・平岩式力織機の開発普及が進みました。これが現在も使われ続けている国産シャトル織機の原型になりました。第三は「加工技術の一気通貫の集積」です。尾州産地が毛織物に転換してゆく中で当初、産地内に整理加工の技術がまったく存在しないという致命的な弱点がありました。試織には成功しても、染色・整理仕上げができる専業工場が産地内に一切なかったため、当時の機業家たちはわざわざ京都西陣の整理工場まで生地を運んで仕上げていたのです。この壁を崩したのは民間の努力と公的機関の支援の組み合わせでした。先覚的な機業家・片岡春吉が自らドイツに染色整理機一式と四幅織機を発注して技術習得に当たる一方、明治34年(1901年)創立の愛知県立工業学校(現・愛知工業高等学校の前身)初代校長・柴田才一郎がヨーロッパ留学中に習得した染色整理の知識を産地の機業家に惜しみなく伝授し、学校の染色整理機を一般企業にも開放しました。
こうして「産地内で全工程を完結できる体制」が約20年かけて築かれていきました。第一次世界大戦(1914年〜)という外圧で需要が爆発したとき、すでに産地内に糸・製織・染色・整理仕上げのすべての技術が集積していたことが、わずか5年で生産量20倍という跳躍を可能にしたのです。
この「技術を外から学んで産地内に定着させる」という蓄積の姿勢は、その後も続きます。整理加工工場だけで縮絨・起毛・剪毛・プレスなど機械の種類が30〜40種類に及び、工場ごとに得意な仕上げが異なるという「分業の深さ」が尾州が世界三大産地のひとつとなった最大の理由かも知れません。
❓ 他の二大産地(イギリス・ハダースフィールド、イタリア・ビエラ)と何が違うのか?
ハダースフィールドとビエラはいずれも羊毛の生産地域に近く、原料の地産地消が強みです。尾州は原料をすべてオーストラリア・ニュージーランドなどから輸入しながら、加工・技術の高さで競争力を維持してきた点が構造的に異なります。つまり尾州の競争優位は「資源」ではなく「技術と集積」にあります。
❓ なぜオーストラリアの羊毛を使うのか?
メリノ種など高品質な羊毛の主要産地がオーストラリア・ニュージーランドであるためです。尾州のそ毛織物(梳毛織物)に使われる細番手の羊毛はこれらの産地から調達されます。皮肉なことに、輸入に特化したことで「世界中から最良の原料を選べる」という柔軟性が生まれました。
3.1200年の変身‐麻⇒絹⇒綿⇒ウールと危機のたびに素材を変えてきた産地
尾州産地の最大の特徴は、1200年以上の歴史の中で何度も素材を変えながら生き延びてきたことです。これは単なる歴史の話ではなく、「危機への適応力」という産地のDNAを示しています。
素材の変遷
【奈良〜平安時代】麻・絹:尾張国は奈良時代から織物の産地として記録に残っています。濃尾平野の豊かな土壌で麻・桑が育ち、絹・麻織物が朝廷への貢納品として送られていました。
【江戸時代】綿:江戸中期から尾張では綿花の栽培と綿織物が盛んになり、「尾張木綿」として全国に流通しました。
【明治24年(1891年)】濃尾大震災が転換点:マグニチュード8.0という日本内陸部最大級の地震が綿織物産業に壊滅的な打撃を与えました。さらに安価なインド綿の輸入増加で競争力を失った産地は、次の素材を模索します。そこで目をつけたのが、明治政府が軍服用に需要を拡大していたウールでした。
【第一次世界大戦(1914〜1918年)】飛躍のきっかけ:ヨーロッパからの毛織物輸入が途絶したことで国産需要が急増。わずか5年で生産量が20倍に膨らみ、尾州は一気に毛織物の産地として確立されていきました。
【昭和30年代】ガチャマン景気:「ガチャンと織機を一度動かすと万(マン)の金が儲かる」という意味の「ガチャマン景気」という言葉が生まれるほどの好況期。朝鮮戦争特需(1950年〜)を背景に尾州産地は最盛期を迎えます。
❓ 「危機のたびに素材を変えた」産地は他にも存在するのか?
産地が素材転換に成功した事例は世界的にも珍しく、尾州はそれを複数回繰り返した稀有な例です。普通は一度確立した産業構造を変えることへの抵抗が大きく、衰退してしまう産地が多い。尾州が転換できた背景には、分業体制の柔軟性(各工程の専門業者が独立しているため、一部が変わっても全体が機能する)と、問屋・商社という流通ネットワークが素材転換の情報と資金を供給したことがあると考えられます。
4.分業×集積の強み‐尾州のテキスタイルが特別な理由
尾州が世界水準の品質を維持できている理由は、技術そのものだけでなく、その技術が「集積した形で産地内に存在する」という構造にあります。
一気通貫の分業体制
尾州産地では原料(輸入羊毛)の受け入れから、洗毛・紡績・撚糸・製織・染色・整理仕上げまで、毛織物の全工程が産地内で完結します。しかも各工程を専門業者が担う「分業体制」です。
整理加工工場だけで機械の種類が30〜40種類:縮絨・起毛・剪毛・プレスなど用途に応じた専門機械が産地内に存在し、工場ごとに得意な仕上げが異なります。「この風合いを出したければこの工場」という知見の集積が産地の強みです。
親機・子機システム:元請け(親機)が企画・販売・品質管理を担い、実際の製織を下請け(子機)に委託するシステムです。これにより大手の品質管理能力と中小の製造コスト・柔軟性が組み合わさります。
バージンウール100%という価値と価格
現在、バージンウール(未使用の新毛)100%のテキスタイルは、ハイラグジュアリーブランド向けでなければ採用が難しいほど高価になっています。原料の羊毛相場・円安・エネルギーコストの上昇が重なり、コストは年々上昇しています。
一方でリサイクルウール・混紡素材との差別化要素として、バージンウール100%の価値はむしろ高まっています。「本物の尾州」は高くなっているからこそ、それを使える製品・ブランドへの訴求力を持っています。
世界のハイブランドと尾州の関係
❓ 世界の高級ブランドが尾州の生地を使っているというのは本当?
本当です。ただし具体的なブランド名を公表しているメーカーは多くありません。ブランド側がサプライヤーの公開を望まないケースが多いためです。産地関係者の間では「〇〇のスーツの生地はうちで作っている」という話は珍しくありませんが、契約上公表できないことがほとんどです。これは尾州の強みであると同時に、産地の認知度が一般に広がりにくい構造的な理由でもあります。
❓ 「尾州マーク」って何?
2016年(平成28年)に創設された産地ブランド認証制度です。尾州産地で製造された一定品質以上の毛織物製品に付与されるマークで、産地の信頼性を消費者・バイヤーに対して可視化する取り組みです。ただし認知度はまだ発展途上であり、産地ブランドとして確立するには継続的な発信が必要な段階です。
5.キャパが満杯、でも設備投資ができない‐逆説的な繁忙の現実
この項が今回の記事で最もリアルな内容。数字と現場の声を重ねながら、尾州産地の現在を整理しました。
生産量の推移――経済産業省データで見る縮小の実態
経済産業省の生産動態統計(繊維・生活用品統計編)によれば、国内毛織物生産量は2006年以降以下のように推移しています。
※出典:経済産業省生産動態統計 ※2012・2013・2021〜2023年は未掲載
2006年比で2024年は約76%減、生産量は4分の1以下に縮小しています。特にリーマンショック(2009年)で約37%減、コロナ禍(2020年)で約23%減という2度の急落が構造的な縮小に拍車をかけました。
企業数の縮小はさらに急激
生産量の縮小以上に深刻なのが企業数・加工キャパの縮小です。毛織物関連企業は最盛期の約4,000社から現在約100社へと、40分の1近くまで減少したとされています。特に深刻なのが整理加工工場で、産地内に10社を切る状態となっているのが現状です。
だから、繁忙期にはキャパの取り合いになる
❓ 生産量も企業数も減っているのに、繁忙期に注文が集中するのはなぜ
大きく2つの理由があります。第一に、サステナビリティへの関心の高まりを背景に、ウール・天然繊維への注目が戻ってきていること。バージンウール100%素材を求めるハイエンドブランドの需要が、縮小した供給キャパを超え始めています。第二に、整理工場の廃業による加工キャパの急減です。「作りたくても加工を頼める工場がない」「繁忙期に整理工場の空きがなくて納期が組めない」という声は、私自身も取引先からよく聞く話です。
❓ この状況は産地にとって良いことなのか
単純に良いとも悪いとも言えません。需要があることは産地にとってポジティブです。しかし受けられる量が限られるため、長期的な産地育成につながらない可能性もあります。加工キャパが縮み続ける中で需要が戻ってきているこの局面を、産地の再生にどうつなげて行くのかが問われています。
⚠️ わからないこと:整理加工工場の廃業数・現在の稼働数について公的な統計は見つかりませんでした。「10社を切る」という数字は産地関係者の発言に基づく情報です。より正確な数字は、一宮商工会議所や愛知県繊維工業組合への問い合わせで確認できると思います。
若い世代の産地ブランド発信
厳しい現実の一方で、若手による産地ブランドの発信も始まっています。木玉毛織(一宮市)などの若手企業がD2C(直接消費者への販売)や産地見学ツアーを通じて、尾州の魅力を消費者に直接届けようとする動きが生まれています。また「THE尾州」「JAPAN WOOL TEXTILE」などの展示会での産地PRも継続されています。
6.名古屋モーニング文化と尾州産地
少し角度を変えて、尾州産地と地域文化の話をしたいと思います。
名古屋と言えば「味噌文化」が有名ですが、喫茶店の件数が名古屋市内だけでも2500軒あると言われていて、コーヒーを注文するとトーストやゆで卵が無料でついてくる「モーニング」という文化があります。私も一宮の喫茶店で菓子パンとヤクルトが出てきたことがありましたが、おにぎりやカレーが付く店やモーニングを一日中やっとる店もあるわ!(名古屋弁になっとるで!)。このモーニング文化の発祥として知られるのが、尾州産地の中心一宮市です。
☕ モーニング発祥の話:昭和30年代前半、「ガチャマン景気」に沸く一宮では機織り機の音が鳴り響く工場内での商談が難しく、近所の喫茶店が機屋の応接室代わりになっていました。毎日何度も訪れる常連の機屋さんへの感謝として、ある喫茶店のマスターがコーヒーにゆで卵とピーナッツを添えたのがモーニングの始まりと伝えられています。一宮モーニング協議会の調査では、1956年(昭和31年)に一宮市本町の「三楽」という喫茶室が最古のモーニングサービスを提供したとされています。
一宮の機屋が名古屋の長者町繊維街(日本三大繊維問屋街のひとつ)へ商品を納品に行くたびに「一宮ではコーヒーにおまけがついてくる」という話が伝わり、名古屋全域へ広がったとされています。実際に長者町エリアの喫茶店では「一宮の人に言われて始めた」という証言も残っています。
「のこぎり屋根の工場が立ち並ぶ産地の喧騒の中から、日本を代表する食文化が生まれた」という話は、尾州産地の最盛期の活気を象徴するエピソードです。
❓ 名古屋モーニングとコメダ珈琲の関係は
コメダ珈琲は名古屋発祥(1968年)の喫茶店チェーンで、一宮〜名古屋で育まれたモーニングサービスを「標準化・全国展開」した功績があります。現地の文化を全国ブランドに育てたという意味で、産地の文化が商業的に広がった好例です。
7.まとめ
尾州産地について、地理・歴史・技術・現状・文化という5つの軸から整理してきました。
1200年以上の歴史の中で麻から絹、綿からウールへと素材を変えながら生き残ってきた産地の適応力は本物です。「羊のいない国の世界三大産地」という逆説は、資源ではなく技術と集積で競争力を作ってきた尾州の本質を示しています。
一方で現実も直視しなければなりません。生産量は2006年比で4分の1以下、企業数は最盛期の約40分の1。整理加工のキャパは急速に縮小し、繁忙期には注文を受けきれないという構造的な問題が生じています。
アパレル・繊維業界に関わる私たちにできることは何でしょうか。まず尾州の生地を「使えるかどうか」という判断の前に、「なぜ高いのか」「どんな技術が使われているのか」を理解することが出発点だと思います。その理解が、素材提案の幅を広げ、バイヤーやブランドへの説得力を高めます。
次回のこのシリーズでは「西の西陣、東の桐生」と並び称される桐生産地を取り上げる予定です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。